もしも、私たちが住む世界とは別の世界に、「学歴」で物事を判断されるパラレルワールドがあったとする。
その世界では、自分が卒業した大学の偏差値によって、人生のあらゆる場面(就職活動など)で有利になったりする。
そんな「もしも」の設定を、SF作家である私は、仕事柄よく妄想するのだが、大切なのは、その先だ。
ifの世界を考えることは誰にだってできるし、あなたも毎日、「もしも、あの時こうしていれば…」ということは考えているだろう。
SF作家のメシの種は、「では、その世界において、どんな苦しみを抱えた人間が存在するのか?」を想像することである。
SFジャンルに限らず、優れた作家とは「人の苦しみに寄り添える人間」だと私は思う。
声無き苦しみに気付き、寄り添い、そして代弁する。
そこから素晴らしい作品が生まれ、読者は、「ああ、明日もまた生きよう」と勇気を持ってくれる。
これが、作家に与えられた役割であると、私は信じている。
冒頭で語った「学歴で判断される世界」には、どんな苦しみがあるだろうか?
仮に、学歴が優れている人のことを「学歴が高い」と表現するならば、その反対は、「学歴が低い」だろう。
その世界では、学歴が低い人がかかえる苦しみ(ここでは、学歴コンプレックスと命名しよう)が、きっと存在している。
人は、苦しみから解放されようと必死にもがく生き物である。
世界の法則が変わっても、人間の根本にある「本能」は、さほど変わらないはずだ。
学歴コンプレックスを持っている人間も、きっとその世界で、もがき苦しんでいる。
その世界の住人ではない私たちは、「学歴が低いことがコンプレックスなら、学歴を高くすればいいのでは?」と、簡単に考えてしまう。
しかし、いろんな事情や家庭環境、社会のルールや、偏見があって、おいそれと簡単に変えることはできないのだろう。
そんな心のひずみから、SFは生まれる。
もう少しだけ、掘り下げて考えてみよう。
何かにコンプレックスを持っており、それを自分の力ではどうすることもできない場合、大抵の人間は「それを持っている人たち」に、反感を抱く。
そして、それを奪うことができないのならば、その価値を失墜さたいと考えるはずだ。
しかし、社会全体での「共通の価値観」をひっくり返すためには、大きな革命が必要だ。
一個人に、起こせるだろうか? 難しいだろう。
そこで、「自分の心の中」でだけ、その価値を貶めようとするはずだ。
その行為の善悪については、ここでは議論しない。
なぜなら、その世界に住む彼(あるいは、彼女)にとってそれは、自尊心を守るために残された最後の道だからである。
学歴という目には見えないものを侮辱するためには、その「権威の象徴」のようなものを、代わりに侮辱する必要がある。
ではその「権威の象徴」のようなものとは何か?
たとえば、「卒業証書」はどうだろうか。
まさに、学歴を重要視される世界では、それを証明する「卒業証書」は、大切に扱われ、権威の象徴になるだろう。
ビリビリに破り捨てたら、スッとするはずだ。
しかし、おそらくこれはひとりずつ大切に保管されているもので、簡単には手に入らない。
誰かの卒業証書を奪って、破り捨てる行為は、きっとその世界でも罪にあたるはずだ。(私たちでいうところの、器物破損のような罪)
つまり、「比較的、簡単に手に入る“権威の象徴”」を侮辱する必要がある。
そう考えると、残されたものはただひとつ。
「進学校の制服」ではないだろうか。
大学の前段階である「私立の進学校」や「付属高校」の制服なら、その気になればメルカリで手に入るだろう。
中古で手に入れた進学校の制服を、部屋着(パジャマ)にすればいい。
自分が行きたかった高校であればあるほど、それを部屋着にした時の「べつに価値あるものだと思ってませんけど?」という感じが増して、なお良いだろう。
進学校の制服を着て、半額になった弁当を食う。
進学校の制服を着て、YouTubeをダラダラ何時間も見る。
進学校の制服を着たまま、こたつで寝る。
つまり、私はこう推測する。
学歴で評価されるパラレルワールドにおいて、学歴コンプレックスを持った人間は、「私立の制服」を「部屋着」にする。
それにより、その価値を(自分の中で)失墜させて、自尊心を守る。
並行世界のどこかには、そんなおじさんが存在しているのかもしれない。
「ifの世界」(おわり)